20170122

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kさんのgg。先日Kさんより「お友達に差し上げたいので」と、ご注文頂いていた帽子が完成したので引き渡しをした後、今日は2時間フルに使ってKさんとセッションでした。セッションという言葉を私が最初に聞いたり使ったりしたのは、音楽の要素としてでしたので、自分でこの言葉を使うときも、音楽的なノリとして用いることが多いのですが、今日のKさんとのggもそんな感じでした。音楽のグルーブ感(って書いておきながら、恥ずかしくなるくらい私にはそのセンスが無いと自覚していますが)は、例えば人との会話でも同じようなものを感じたりすることがあります。だから同じsessionという単語が使われているのかな。考えてみれば当たり前なんですけど、「目の前の私はあなたでは無い」という事実が放つ客観性を持った会話の軸が、相手の方にとっての「自分を照らす灯火」となることがあります。自分が何者なのか、自分のありのままはどんな姿なのかという自問は、古来より人間が持つ普遍的と言っていい思考だと思うのです。その解明の手立てとして目の前に人がいる、と考えたら自分を知るために目の前に他人がいる というggの使い方もあり。デッサン力は観察力。だとしたら、何も手を動かすのみがデッサンではないし、日々1秒の連なり重なりで見ていたものが、自から表出されるのだから、見えているもの、見たものを自分の思考癖などでいかにねじ曲げないでそのまま自分の外へ出していくかが、ありのままとはという問いの答えへつながっていくのかもしれません。今日は話に集中していたので写真も撮らず…。Kさんが帰られた後一人自分の制作をしながらそんなことを考えました。先日Sちゃんがくれたバラがじきに枯れそう。でもここからの花の妖艶な美しさが私は大好きです。記念に。